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公式ブログへ移転します

2006/11/14 10:49

 

上島は、11月1日、雑誌『正論』編集長に就任しました。

これに伴い、このブログも『正論』編集部 公式ブログ(→こちら)へ移行します。

引きつづき、今月の『正論』、別冊『正論』の読みどころを、紹介していきます。よろしくお願いします。(『正論』WEB担当)

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酔夢から彷徨へ

2006/11/07 23:10

 

 ♪夏が来れば思い出す…といって成東町の「礎」殉難者のことを書いてから更新することもなく二カ月以上が過ぎてしまいました。きょうは立冬。時の流れるのは本当に速いものです。「紙」の雑誌づくりに追われて開店休業状態のままだったブログに、これまでお立ち寄りくださったみなさんに改めて感謝いたします。「酔夢譚」だからといって決して酔いつぶれていたわけではないのですが…この間あれこれと追われるばかりで…その結果の一つが「別冊正論」第4号の刊行です。
 10月23日に出した別冊第4号は、「大東亜戦争-日本の主張」という特集です。真珠湾奇襲から65年、“あの戦争”を「太平洋戦争」としてしか教えられていない、若い戦後世代に手にとってもらいたいと思いつくりました。中身についてはおいおいご紹介していくつもりですが、「月刊正論」12月号ともどもよろしくお願いいたします。 





 11月1日付で「正論」編集長に就きました。もともとが“浪人”体質なので、柄(がら)にもないのですが、なんとかやってゆこうと思っています。
 前任の大島信三編集長は、16年9カ月の長きにわたって雑誌「正論」を担い、堂々たる存在感のオピニオン誌に押し上げた最大功労者です。昭和48年の創刊からしばらくは産経新聞「正論」欄の再録がメインだった誌面を、本当に雑誌らしい内容と雰囲気に変えたのは大島さんでした。
 オピニオン誌というのは、大抵どこも赤字覚悟ですが、黒字であることを要求されながら、毅然たるオピニオンの展開と利益の確保を両立させた大島さんの手腕は、身びいきのご批判覚悟で記すのですが、戦後の新聞・出版界の中でも特筆されるべきものだと思います。
 大島さん、本当に長い間お疲れさまでした。
 浪人体質で、こらえ性のない私が後任にふさわしいとは思えませんが、今後も宜しくお願いいたします。編集者からふたたび記者に戻られて「SANKEI EXPRESS」に書かれるコラム「春夏秋冬」、楽しみにしています。


 別冊第4号の刊行後、月刊12月号の校了作業に突入、11月に入ってからもドタバタ続き。ようやくブログ再開という意欲が湧いてきたのですが、そうした合間を縫って、11月3日夕、東京国際フォーラムで開かれた徳永英明さんのコンサート“Beautiful Symphony”に行ってきました。徳永さんとは同世代、ちょっとした縁があって、徳永さんから「別冊正論」の感想を聞かせてもらったこともあります。最近、原稿を書いたり、自宅で入浴する際に聴いているのが、彼のカバーアルバム「VOCALIST」です。
 ちょっとハスキーで、そうでありながら澄んだ高音がとても魅力的だと思います。コンサートは東京フィルハーモニー楽団の演奏をバックに、大いにもりあがりましたが、曲間のトークがまた面白かった。日常会話は関西弁で、なかなかひょうきんなところがありますね。

「酔夢譚」のときは、長い論を書いていましたが、それでは更新が覚束ないことが自身よく分かりましたので、今後はこんな感じで書いていくことにします。私がブログを書けるように後押ししてくれている牛田久美記者(雑誌『正論』編集部公式ブログをご参照)のアドヴァスを聞きつつ、三日坊主で開店休業にならないようにしたいと思います。
 時々は、酔夢も書きますが、記者、編集者としての彷徨(ほうこう)の記録になってしまうかもしれません。
 お付き合いくだされば幸いです。



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成東町「礎」の殉難者に思う

2006/08/22 14:28

 


 ♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空…というのは、唱歌「夏の思い出」(作詞・江間章子、作曲・中田喜直)の歌い出しですが、私にも「夏が来れば」必ず思い出す話があります。産経新聞東京本社がまだ夕刊を出していた頃、「夕刊コラム」という各部局持ち回りの記者署名コラムがありました。そこにも書いたことがあるのですが、夏になると、私は決まって千葉県九十九里浜の成東海岸を訪れたくなります。夕暮れ時、浜辺に寝そべって、汀(みぎわ)を駆けてゆく水着姿の子供たちに目をやると、ゆっくりと時が流れてゆくような気がします。

あのコラムを読まなければ、私が成東の浜を訪れることはなかったかもしれません。

   

 千葉県成東町──今年三月に隣接の山武町、蓮沼村、松尾町と合併し、いまは「山武市」となっていますが、「成東」という町の名を初めて知ったのは、昭和55年2月13日付の産経新聞一面コラム「産経抄」でした(当時はサンケイ抄)。私はまだ学生で、サンケイ新聞(当時の題号です)の一読者にすぎませんでした。

   

 担当の石井英夫論説委員は、「九十九里浜で昼寝でもしようと総武線に乗り、行きあたりばったりに」早春の成東海岸を訪れたと書き出し、ここはアララギ派の歌人・伊藤左千夫の出身地でもある。「木立の中にかやぶきの生家が保存され、……生家の壁にセピア色の明治天皇のお写真があり、柱時計の針は歴史を凝結するように動かない」とその日のコラムを結んでいます。

   

 石井さんはその後も何回か、九十九里浜・成東のことを綴っているのですが、忘れ難いのは、成東駅員殉難の話です。敗戦2日前の昭和20年8月13日の正午近く、構内下り線で起きた軍の火薬貨車の爆発のことで、早朝から米軍機の機銃掃射を受けて発火した貨車を、被害を最小限に食い止めるべく、身を挺(てい)して移動しようとした人々がいたのです。駅員15人、将兵27人で、彼らは避難しようと思えば避難できたものを、町民や旅客のために必死で消火活動を続け、貨車を動かしたのです。

   

 被弾後18分、山かげまで来たとき、火薬満載の貨車は大爆発し、42人全員の命が散りました。このとき長谷川治三郎駅長は、貨車ホームで陣頭指揮していた位置で、胴体だけが転がっていたといいます。また戸田義保助役は、駅長事務室の前で頭の骨を折ってうつ伏せに倒れ、出札係の橋本とし子、駅手の田谷歌子ら女子職員は駅前広場まで吹き飛ばされていたそうです。

   

 この出来事を刻んだ石碑が、今もJR成東駅頭に「礎」としてひっそりと建っているはずです。平和の立ち返るわずか2日前に命を投げ出した人々の享年は、私を愕然とさせます。転轍係・関谷昇18歳、同伊藤昭37歳、連結手・市東隆夫16歳、駅手・原俊夫14歳、同京相静枝18歳、同田谷歌子15歳、出札係・橋本とし子18歳……。みな当時の国民学校を出たばかりぐらいの年齢で生涯を終えているのです。

   

 敗戦間近、男子駅員はそのほとんどが戦場へ行き、駅務は女子供が担っていました。いたいけな少年少女に一触即発の貨車の移動を命じるとは、それこそ恐ろしい軍国主義の発露で残酷極まりない、と反戦運動家や平和教育者は非難するのでしょう。だが、果たしてそうか。生き残った1人は当時を回想して、「強制や命令なんかじゃない。みんな、子供心に、それが仕事だ、役目だと直感したからなのでした」と語っています。

   

もちろん、この言葉がすべてではない。「誰しも命が惜しい」と思うのは当然です。しかし、その当然のささやきに抗(あらが)えるのが、人間のもう一面の真実ではないでしょうか。

  

「人は何かのために、誰かのために、命を投げ出すことができる」

  

成東町の悲劇は、戦争の悲惨さとともに、人間の崇高さも伝えていると私は思います。醜悪さや狡(ずる)さ、残酷さを持つ人間の、しかし、決してそれだけではない人間存在の真実です。

   

 思えば、戦後はこうした人間の、否、日本人の物語を削り取ってばかりきたのではないでしょうか。何でもタカをくくって、恋愛も友情も、しょせんは打算の関係にすぎず、他人のために尽くす人間がいれば、そこには密かな計算があるはずだと疑う。美談があれば必ず裏に何かあり、お金や利権のために動いたと言えば本当らしいと説得力を持つ。そうやって人間の足を引っ張って、それこそが偽善を排した進歩的な人間観なのだと、冷めた目で見続けてきたのではないか。へそ曲がりの上に、たいてい二日酔いが加わっている編集者にはそう見えてなりません。

   

 人間はそんなものじゃない。たとえ綺麗事と言われようとも、それを押し通す力がある。押し通せば、それは綺麗事ではなく真実となる。少なくとも私はそう思いたいのですが…いい歳をして甘すぎますか? 歴史や物語は、それに連なって生きる者にそうした確信を与えるものではないのか。1人の英雄によって記憶される物語ではなく、普通の日本人がどう振る舞ったか、という物語こそが噛み締められなければならない。年前の特攻隊も、成東の少年少女たちも、しょせんは「犬死」だったのか。人として生き残ること、ただ生存すること、を超える価値は存在しないのか。

敗戦と、その後の60余年という歳月は、いったい日本人をどこまで変えたのでしょうか。


 

 

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李登輝さんの来日を歓迎する

2006/08/20 18:18

 

 台湾の前総統、李登輝さんの事務所が、李さんが9月12日から17日の日程で来日することになったと発表しました。詳細については調整中とのことですが、日本国民の一人として大いに歓迎したいと思っています。



 李さんを台湾独立派と非難する中国は、またぞろ強く反発し、わが国外務当局にビザ発給を認めないようにと圧力をかけてくるでしょう。麻生外相がそれに屈することはないと確信していますが、これまでも、「李登輝氏の来日は認めない」と中国の代理人のような行動をした外務官僚は少なくありませんから、要注意です。

   

 李登輝さんには、何度かお目にかかったことがあります。中国が李さんを「台湾独立派」と警戒するのは当たり前です。なぜなら李登輝さんは、中国人とは異なる、“台湾人”であろうとしているからで、「台湾人による台湾人の国」をつくろうと長年粉骨砕身してきた政治家だからです。そして、李登輝さんの考える台湾人のなかに、戦前の日本統治時代に、わが先人が示した「日本精神」、法治主義や勤勉、誠実といった要素が含まれているのは間違いありません。

   

 実は、李登輝さんの兄上は靖国神社に祀られています。「靖国神社委任調査戦死遺族名簿」には「合祀番号二十一。海軍上等機関兵。岩里武則。昭和二十年二月十五日戦死。死沒場所ルソン島マニラ市。父李金龍」と記されています。

李さんの二歳上の兄登欽さん(岩里武則は日本名)が、旧日本海軍の一員として戦死したことは、台湾でも比較的最近まであまり知られていませんでした。「22歳まで日本人だった」李登輝さんも、京都大学在学中の昭和19年、日本陸軍予備士官第11期生として同年末には陸軍少尉に任官しています。台湾人の元日本軍人は80,433名、うち戦死者は30,304名です。

   

 故司馬遼太郎の『台湾紀行』に、かつて日本人だった蔡昭昭さんという美しい台湾婦人から、「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と尋ねられて困惑する場面があります。

  

「たずねている気分が、倫理感であることは想像できた。…彼女の半生をひとことでいえば、水中の玉のように瑩(えい)として光る操なのである。こういう人の前では、答えに窮したほうがいいとおもった」と司馬さんは綴っています。

   

 日本が台湾を捨てた──それが昭和20年8月のポツダム宣言受諾による台湾の放棄なのか、昭和47年の田中角栄内閣による「日中国交回復」と「日台断交」なのか、あるいはその両方なのか。司馬さんはその特定を蔡さんに求めたりはしません。

   

 先年、総統選挙の取材で台北を訪れたときのことです。選挙戦は陳水扁、連戦宋楚瑜各氏の三つ巴で、その三候補の選挙事務所を回るかたわら、いくつかのパーティーに出席しました。その中の一つに台湾総督をつとめ、今も彼の地に眠る明石元二郎の伝記の出版を祝う宴(うたげ)がありました。出席者は台湾人と日本人が半々。

   

 『台湾紀行』に“老台北”として登場する蔡焜燦(さい・こんさん)さんが日本語で、「明石閣下が台湾人を、台湾海峡の平和を守ってくれる。昔も今も、日本人は決して冷たくない。冷たいのは、ある時期の、一部の政治家や役人だけだ」と話すのを聞きながら、司馬さんが、蔡昭昭さんに問われて答えに窮したのと同じような思いを私も抱きました。評論家の金美齢さんは、「日本精神の涵養につとめ、それによって事業家として一代を築いた蔡さんの真摯な姿がそこにあった」と「月刊正論」(平成12年5月号)に記しています。

   

蔡焜燦さんもまた18歳まで日本人でした。取材を終えて台湾を去る晩、金美齢さんとともに蔡焜燦さん、李明霞さんご夫妻に食事に招かれました。「日本から若い記者が訪ねてきてくれた」という親愛感あふれる眼差しに、李登輝さんと司馬さんの対談が脳裡をよぎりました。日本人として育ち、日本の敗戦後は台湾人として生きた李さんの複雑な思い……。もちろん、その時代を私は実際には知りませんが、かつて共有した歴史に連なる国の人間として、李登輝さんや蔡焜燦さん、李明霞さんに対し、前提なしのとても懐かしい思いを抱かざるを得ませんでした。

   

 日本政府は断交以来、国家として台湾を認めず、「台湾当局」「台湾にあるエンティティー(存在)」という表現を用いてきました。李登輝さんは総統時代、台北で日本人記者団に対し、「京都大学の同窓会出席のためのビザを発給してくれるほどの肝っ玉は(日本政府)にはない。だから訪日については言わない」と語ったことがあります。

   

アメリカは、断交後も「台湾関係法」を制定し、台湾との関わりに主体性を維持してきました(ただ、それも中国とのパワーゲームの中で時々揺らいではいますが)。日本と台湾の歴史的な関わりは、本来アメリカと台湾のそれとは比較にならないはずです。日本語で和歌を詠む人々が存在し、『台湾万葉集』が生まれる──そういう“特殊な歴史”を彼の地にもたらしたことを、日本人はもっと重く受け止めるべきではないでしょうか。

   

 日本も台湾も今、異常な軍拡路線をひた走る中国から、国家主権を根幹から突き崩されかねないような“圧力”を受けています。実のところ、硬軟取り混ぜたさまざまな圧力に、日本人以上に苦戦しているのが台湾人かもしれません。それでも台湾人が、「台湾人の国」をつくろうと奮闘を続けるならば、今度は日本が応える番です。蔡昭昭さんの、「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」という問いかけに、これからも明石総督の遺徳しかないようでは、今を生きる日本人として情けない、と思うのは私だけでしょうか。歴史に照らした情理においても、また日本の枢要な国家戦略としても、台湾と盟友関係を固めることが不可欠だと考えます。

    

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「I am 日本人」

2006/08/17 22:24

 

 小泉首相が終戦記念日に靖国神社を参拝したことについて、共同通信社が1516両日、全国緊急電話世論調査を実施しました。その結果、「8.15」参拝を「してよかった」という回答が51.5%で、「すべきではなかった」の41.8%を9.7ポイント上回りました。肯定派が理由に挙げたのは、「参拝は他国によって影響されるべきではないから」が過半数の56.6%で、逆に否定派は、「中国韓国などとの友好関係に影響するから」(55.4%)が最も多かったそうです。また、次期首相の靖国参拝については、「参拝すべきではない」が44.9%で、「参拝すべきだ」の39.6%を5.3ポイント上回っています。

  


 いささか唐突ですが、ここで俳優の藤岡弘、さんの発言を紹介したいと思います。藤岡さんは、あの“初代仮面ライダー”本郷猛役で一世を風靡(ふうび)し、その後、「日本沈没」「野獣死すべし」などのほか、ハリウッド映画「SFソードキル」「K2」にも出演、国際俳優として活躍中です。「大空のサムライ」で、わが日本海軍航空隊の撃墜王・坂井三郎さんを演じてもいます。空手道初段、居合道初段、柔道3段、抜刀道4段、刀道7段など武道にも精通、「日本人よ、武の心を取り戻せ」と訴えています。

   

 

「いまの日本が他国から徹底的な侮りを受けないで済んでいるのは、身命を投げ打って究極の奮戦をしてくれた英霊、神風特攻隊のおかげです。彼らが武士道精神を発揮して戦ってくれたその記憶が相手に焼きついていて、それがバリアとなってくれている。いまもわれわれをどこかで守ってくれているんです。日本人を相手にあまり理不尽なことを仕掛けてはならないという自制を、辛うじて世界にもたらしている。……個人の幸福とか損得勘定だけではない、損することを覚悟でその運命を引き受けて、愛する者とそれに連なる故郷や国のために命を投げ出すことがあり得るということを実際に示してくれているわけです。そして過去にそうした思いで死んでいった英霊が祀られているのが靖国神社なのです」


   

 この発言は、「君は胸を張って“am 日本人”と言えるか」と銘打った、これも熱血俳優の森田健作さんとの対談(別冊正論第3号)で飛び出したものです。藤岡さんは、「どの国も、どの民族も、自国のために戦って斃れた戦士の慰霊を大切にする。当たり前の行為なんだということを改めて日本人は──大人も子供も──、自覚すべきなんです。問題を政治的にとらえすぎるとその本質が分からなくなってしまう」と、靖国参拝の政治問題化を憂えています。

   

藤岡さんは続けて、「SFソードキル」の撮影現場で、当初現地スタッフから「ヘイ、ジャップ」と呼ばれていたことを明らかにし、その侮蔑に対してどう闘ったかを語っています。

  

「威を以て勝つ──、国際社会においては、時にこうした“力量”を示すことも必要なのです」

  

藤岡さんが語る「威を以て勝つ」とはいかなる行為か。それは同対談を読んでいただきたいのですが、そもそも「友好」とは何も相手に阿(おもね)ることではない。こちらもきちんと主張すべきことは主張するということが、実は相手を対等と認める行為なのだと、いい加減日本人は気づくべきではないかと思います。

   

 森田健作、藤岡弘、両氏による対談は、森田さんが企画・原案・製作総指揮をつとめ、8月5日から東京、千葉をはじめ全国で順次公開されている「am 日本人」という映画を題材に、戦後の日本人が忘れてしまった価値観とは何か、国際人とは無国籍の根無し草になることじゃない──等々、愛国心や日本人のアイデンティティをめぐって、ざっくばらんに、熱く語り合ってもらったものです。

   

 森田健作さんは昭和46年、伝説的青春ドラマ「おれは男だ!」に主演し、主題歌「さらば涙と言おう」が大ヒット。その後も映画「砂の器」、テレビ時代劇「大岡越前」をはじめ数多くの映画やテレビに出演。平成4年、東京選挙区から立候補し参議院議員に初当選。平成10年から15年までは衆議院議員として活動し、昨年春の千葉県知事選挙では僅差で敗れはしたものの、「千葉を、日本を立て直したい」という熱い思いは多くのひとを動かしました。その選挙戦は──私も取材したのですが──、まさに“青春の巨匠”の面目躍如たるものでした。

   

 その森田さんが、8年前の文部政務次官時代から抱いていたという「日本人は本当に大丈夫か」という危機感、日本人が日本人らしく生きるとはどういうことか──を真摯(しんし)に問いかけたのが、「am 日本人」という作品です。祖父や父(藤岡さんの役です)から”日本人らしく”躾けられた19歳の日系3世、エイミー・ワタナベ(森本クリスティーナさんが演じています)は、期待に胸躍らせて来日するのですが、叔父(森田さんの役です)の家に寄宿しながら見た平成日本の姿とは──。

  

「おじいちゃんの日本はどこへ行った!?」とエイミーが思わず叫ぶ場面があるのですが、私は、画面の前で唸るしかありませんでした。たしかにそうだ、と。

   

 森田さんは、「(この映画で)“答え”の押し付けはしないけれども、『一度くらい考えてみろよ』という押し付けはしたい。君がいま生きてあるのはどういうことか」と語っています。

 森田さんによれば、「am 日本人」は、文科省推薦を申請したものの、その選定からは外されたそうです。いかなる理由なのかよく分かりませんが、選定に携わる人たちのなかに、日本の若者に日本人であることを考えさせたくないと考える“勢力”が存在するのかもしれません。また中国韓国から見れば、ナショナリズムを鼓吹する危険な映画と映るのかもしれません(私は、まったくそうは思いませんが…。涙と笑い、青春の熱情あふれるドラマです)。



 とにかくこの夏、ぜひ劇場で観てほしい一本です。
 別冊正論ともども宜しくお願いします。  


 「am 日本人」の公開劇場は以下のとおりです。

85日~東京・新宿トーア(☎03-3209-3030

85日~千葉・千葉劇場(☎043-227-4591

826日~東京・上野スタームービー(☎03-3831-1031

92日~北海道・ディノスシネマ(☎011-860-1255

1014日~大阪・シネフェスタ4(☎06-6647-7188)

1111日~和歌山・ジストシネマ和歌山(☎073-480-5800

公式ホームページhttp://www.iam-nipponjin.com/index.html

 

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「この国」から「わが国」へ

2006/08/16 21:50

 

 別冊正論第3号「今こそ問う 日本人の志はどこへ行った」の表紙のデザインについて、「何をイメージしているのか」というお尋ねをいただきました。過日、「日本文化チャンネル桜」(衛星放送スカイパーフェクTV! CH767)の「報道ワイド日本」(水島総キャスター)や「桜戦略研究所」(潮匡人所長)という番組にお招きいただいた際にも同じ質問を受けたのですが、ブルーブラックのグラデーションの背景に白文字でタイトルを抜いた表紙デザインは、実は、映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純彌監督)の冒頭シーンから連想したものです。





   

 戦艦大和が沈没した東シナ海の海底に水中カメラを搭載した小型潜航艇が接近すると、藍色から浮き出るように大和艦首の菊花文様が見えてくる、あのシーンです。「日本人の志」をテーマにした一冊をつくるにあたって、「これだ」と思いました。「志」といっても、何かを声高に叫ぶような、スローガンを並べるだけの内容にはしたくないと考えていた私にとって、深い海底から浮かび上がってくる大和の艦首が語りかけてくるものは、叫びではなく、心の奥底から湧き上がってくるような自然な情感、愛する者を想い、そのために命を懸ける者の静謐な「意志」の力でした。深い海の底から静かに、しかし絶えることなく湧き上がってくる思い…このイメージを形にできたら、ということで、デザイナーに依頼して出来上がったのが第3号の表紙です。

   

 映画「男たちの大和/YAMATO」は劇場で二度観ました。この作品については、いずれ本ブログでも書きたいと思っていますが、エンディングに流れる長淵剛の「CLOSE YOUR EYES」を聴いて、「ああ、もう本当に定着してしまっているのだなあ」と改めて感じたことがあります。

♪それでもこの国をたまらなく愛している…と長渕さんの熱き歌声に感涙を抑えつつ、私が気になったのは「この国」という言い方でした。日本を語るとき、なぜ「わが国」ではなく、「この国」になってしまうのだろうかと。

   

 長渕さんの歌自体を問題にしたいのでありません。この主題歌はとても気に入っていて、つい先日もカラオケで下手なりに熱唱しました。「この国」と、少し距離を置いた表現によって、“それでも、たまらなく(日本を)愛している”という思いが、さらに深いものになっているという気もします。ただ、日本人が祖国を語るとき、「わが国」ではなく、「この国」という言い方が普通になってしまっているとしたら、やはり「ちょっとおかしいんじゃないか」とへそ曲がりを言ってみたい自分がいるのです。

   

次期首相候補筆頭の安倍晋三官房長官の新著『美しい国へ』(文春新書)を読みましたが、ここでも「私たちの国」という言い方の一方で、「この国」という表現もあります。そんなに細かいことを言っても何の意味があるんだと言われてしまいそうですが、ここに、戦後の日本人の大きな忘れ物があるような気がしてなりません。

   

 別冊正論第3号の冒頭は、日下公人さん(評論家)による『「この国」から「わが国」へ』という論考です。少し長くなりますが、以下に日下さんによる問題提起をご紹介します。


  


 〈故司馬遼太郎さんが、日本を論ずるにあたって「この国のかたち」と言ったとき、なぜ「わが国」と言わないのだろうと多くのひとは思った。「この国」という言い方は、自らはそこから距離を置き、一体になっていないことを示している。自分だけはグローバルな視点に立ち、日本を見下ろしているような感じがする。それは、日本を“研究対象”として見る眼差しでもある。なんでも他人事のように言うのはインテリの癖である。司馬さんもその例にもれず格好をつけて言ったのか、あるいは本心から「わが国」と言いたくなかったのか。

  

 先の大戦末期、大阪外語学校(現大阪外語大学)の学生だった司馬さんは、学徒出陣で戦車連隊に入隊した。そのとき与えられた戦車があまりに文明の水準からはお粗末で、そんな戦車で戦えとは、犬死にせよということと同じではないか、と陸軍上層部の準備不足に怒りを覚えたという意味のことを書かれている。そうならば、「日本国家は嫌い」となっても当然である。

  

 そのせいか、『坂の上の雲』で日露戦争を描いても、日本国や明治天皇が優れていたからロシアに勝ったとは書かない。東郷平八郎や秋山兄弟(好古、真之)や大山巌、児玉源太郎といった英雄、偉人がいたと書く。そこには国家礼讚、天皇礼讚はない。

  

 先の大戦に参加させられた日本人の大部分は同じ気持ちだったから、国家でも天皇でもない、日本人が奮闘した『坂の上の雲』はよく読まれた。その読者になったのは、「日本国家」とは距離を置きたいが、「日本人」としては誇りを持って生きたい--という人たちが多かったのである。

  

 言葉の感じでは「わが国は」ナショナリズム的で、「この国」はインターナショナル的である。「この国」という言い方には、「西洋と東洋の両方を知っている」「自分は普通の日本人ではない」「国際人である」等々のニュアンスが含まれ、知的かつ合理的な印象を与える。それが格好いいというのが戦後の流行だった。

  

 司馬さんは、単なる一人の戦争被害者として日本を嫌いになったのか。それとも戦後の流行に乗ったのか。あるいはそれ以上の何か大きな視点があって日本を見ていたのか。その問いかけのカギは、「大阪外語学校蒙古語科卒」という司馬さんの学歴にあるように思う。

  

 司馬さんの随筆には、ベトナム韓国、蒙古(モンゴル)、日本を同じように中国の周辺国として並列的に書いたものがある。たとえば「停滞を経験しなかった歴史」(『司馬遼太郎が考えたこと』7)では、中国の周辺国では日本だけが停滞を経験しなかった特異な国であるとして、その特徴や経緯が論じられている。司馬さんが敬愛した蒙古は中国を支配し、何度も国を建てた“本家”だから、蒙古を知っているひとは中国を論じる資格があり、その中国から周辺諸国を見れば日本はその一つになる。というわけで、司馬さんには日本を指して「この国」と呼ぶ“資格”があるのである。

  

 では、司馬さん以外の日本人で、現在「わが国」を「この国」と呼ぶ人たちはどこに立脚しているかというと、多くがアメリカであるとすれば、彼らは司馬さんと同じく、立脚点はアメリカだという自覚のもとに、アメリカから見た世界像のなかで日本の特徴を言わねばならない。このように論じる際の立脚点から考えると、「この国」とは軽々に言えないことになる。

  

 こんな話から始めたのは、ここ数年の日本の変化について感じ取ってほしいと思ったからである〉

   

──というふうに日下さんの論考は続きます。なるほど、そういえば「この国」という言い方は、司馬遼太郎という国民的な作家によって、「この国」に定着したような感じがするなあと思われた方、そして「この国」という言い方に少しでも違和感を覚える方は、この続きをぜひ読んでいただきたいと思います。小泉純一郎首相が8月15日の終戦記念日に靖国神社の参拝を果たしたことで、さまざまな議論が交わされていますが、改めて見つめるべきは、歴史の総体、集積としての日本人の志とは何であったのか──ということであり、今生きている私たちが、それをいかに受け止め、後生にいかに伝えてゆくかということに尽きると思います。

   

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「別冊正論」第3号をつくりました

2006/08/02 16:56

 

「別冊正論」第3号、どうにか世に出すことができました(7月20日発売)。すぐにもブログでご報告をと思っていたのですが、発売直後に「月刊正論」9月号の校了作業、その後も次号以降の「別冊」「月刊」諸々の取材や打ち合わせ、販促PRなどに追われて打ち過ぎてしまいました。

 


  

おかげさまで創刊号の「軍拡中国との対決」、第2号の「日韓・日朝歴史の真実」ともに好評を博し、版を重ねることができましたが、第3号は「今こそ問う 日本人の志はどこへ行った」という特集テーマが抽象的すぎたのか、素直に告白すると、前2冊と比べてやや苦戦をしています。

なぜ今、「志」なのか──。




産経新聞7月29日付の一面社告にも書きましたが、戦後の日本は、マッカーサーの“催眠術”によって、「平和」をスローガンに「国家」を忘れたまま60年余りを歩んできました。それは幸福なことだったかもしれませんが──愚者の楽園ではなかったのか──、今、わが国に突きつけられている現実は、無法な隣国による国民の拉致であり、異常な軍拡や核ミサイルを背景にした恫喝です。日本はそれに毅然と立ち向かい国家と国民を守れているか。

  

残念ながら、米国に国家の安全を委ね、自らの頭で自国の独立を考えることのないまま過ごしてきた戦後の日本人は、先人たちが持っていた独立心や気概を失い、それが今の危機の根底に横たわっているように思えます。日本の「国家戦略」はどうあるべきか、という議論は政治家や官僚の口からも発せられ、マスコミもそれを論じますが、何か決定的なことが忘れ去られていないか。

私には「日本人の志」の喪失こそが問題なのだと思えてなりません。

  

あらゆる戦略は、最終的には「心」のあり方に帰着します。たとえば福沢諭吉は、そうした心のあり方を「自立」に求めました。今の日本人の議論の組み立て方を見ると、「アメリカがこう要求するから」、あるいは「中国がこう非難するから」といった他者を主体に置いたものばかりです。いったい日本人の主体性はどこにあるのか。

  

2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロは、実は日本人に「自立」を真剣に考えさせる契機だったと思うのですが、その後の論壇や世論は、ともすれば単純な「反米」「親米」論に流れてしまいました。突きつけられた本質は、立ち現れたアメリカの一極覇権構造に対する「日本の自立」の視点だったにもかかわらず、それを考えようとはしてこなかった、というのが私の実感です。

  

 中国韓国北朝鮮などの「反日」に対しては、「別冊正論」創刊号、第2号にその答えを示そうと努めました。それに続いて、では日本人はどうなのか。その自省を込めてつくったのが第3号なのです。皇室典範改訂問題や靖国神社の問題など、いわゆる保守派の中でも議論が分かれていますが、国論が二分することを恐れずに、さまざまな問題を大いに議論するところから、練磨を経た、確固とした日本人の志が生まれてくるのではないかと思っています。

  

「別冊正論」第3号のあとがき〈操舵室から〉に書いたのですが、素直に国を想う心があれば、自ずと口角泡を飛ばすような議論も、いずれ微笑のなかに収斂されてゆくような気がします。



10代の終わりから20代かけてよく読んだ富田常雄の『姿三四郎』に印象的な場面がありました。ちなみに私はその頃、柔道ではなく空手(極真会)を稽古する若者でしたが、柔道一途に生きる主人公、姿三四郎の青春の夢と苦悩には大いに共感させられ、何度もページを繰ったものです。明治という時代にロマンティシズムを感じ、強い憧れを抱くようになったのも、この不朽の名作によるところが大きかったように思います。実際、書生気取りでした。

  

 姿の師である矢野正五郎は、明治開化期の浮薄な欧化主義に抗し、武士道精神に根ざす人間修養の道として“柔道”を興した人物と描かれています。若き門弟たちも激しい修練とともに、日本の行くべき道をめぐってさまざま苦悩します。

「日本のために英語を学ぶ」という戸田雄次郎と、「開花とは国を滅ぼすこと」と断ずる壇義麿(ともに紘道館四天王)の激しい議論を傍らで聞いていた姿は、「貴様はどっちだ」と問われ、

「俺か、俺は二人ともいい」と答えるのです。

そして「二人の組打ちのなかから、ほんとの日本が出て来るのだ」と。これは折衷ではない。組打ちは戦いですから、互いによる熱と摩擦によって新たなものを生み出すということです。

  

こんなことを思いながら、「日本人の志」について考えた一冊を、立ち読みでも結構です、一度手に取ってみていただければ幸いです。

以下、目次の一部です。



▽「この国」から「わが国」へ(日下公人)

▽美と酔狂に殉じたい(曽野綾子

▽己の信ずるままに、おもねらず、なびかず(上坂冬子

▽戦後日本のけじめ(西部邁

▽河井継之助の八月十五日(東谷暁)

▽“小さな部屋”の窓辺にて(西村眞悟)

▽三島事件とは何であつたのか(長谷川三千子)

小泉八雲の聲を聞く(関岡英之)

▽熱血対談 君は胸を張って「I am 日本人」と言えるか

森田健作&藤岡弘、)

▽日本人が知らない、世界が恋する日本風(呉善花)

▽だから私は日本人を信じない(林秀彦)

▽山本七平の流儀(潮匡人)など。

  

全国の書店でお求めになれますが、直接「正論」販売部にお申し込みいただければ送料サービス(税込定価860円)でお送りいたします。お申し込みは▽はがき〒100-8077(住所不要)産経新聞社「正論」販売部別冊係▽FAX03-3241-4281▽Eメールseiron@sankei.co.jp

 

 

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“見えない暗闇”(3)

2006/06/22 19:49

 

 人間に内在する暗闇--私はときどきそれを「後ろめたさ」のなかに確認することがあります。たとえば、飛雄馬の一言に感動したはずの自分が、それとは別の感情をもって人を見ている瞬間を自覚したときです。慄然とします。あるいは、言葉の言い換えどころではない偽善を自らの内に意識したときです。われながらひどい奴だと心の内で罵りながら、どうにもならない自分と向き合う瞬間のあることを否定できません。

  

 この感覚をどう表現したらいいか……。

  

そんなとき、山田太一さんが『見えない暗闇』の中で、主人公の義父に語らせているせりふが妙にしっくり来るのを発見したのです。主人公は東京都の清掃局の役人で、妻の不倫相手を殺してしまったようなのですが(主人公の幻覚かも知れない)、警察の知るところとなって追及されるわけでもなく、義父がそのことを忘れろと主人公を諭すくだりで自分の戦争体験を語る場面があります。少し長い引用になりますが、お付き合いください。

  

「南方へ行った。小さな島だ。そこで昭和十九年に、小隊が四百人ぐらいの島の人間を殺した。戦後どういうもんか、明るみに出なかった。私らは帰って来た。それきりだ。ひどい話だ。しかしね、いまの若いもんにひどいなんていわれたくない。いうんなら戦争中のあの頃を全部目の前にもう一回つくってみなくっちゃいけない。その中で、お前ら、私らと同じことをしないっていいえるか? っていうんだ。いまなら、なんとでもいえる。

  

しかしお前らだって同じだよ。ああいう時代が来れば同じことをする。今の人間の方が昔の私らよりましな人間だなんてことはない。同じことをして、ばれずに終われば忘れるんだ。めぐり合わせで、いいこともする。そういうもんだ。二十人の余を殺してもそうなんだ。それも特別なことじゃない。似たようなことは、あちこちであった。みんな忘れるんだ。そういうもんだ。一人ぐらいのことでがたがたすることはない。それもあんた、殺したかどうかはっきりしないっていうんならなおさらだ。綺麗事にあおられて、殺したなんて、いっちゃいけない。

  

人間は、本当のところ、そんな綺麗事じゃすまないんだ。今だけだよ、平和で、そこそこの金もある今の日本だけだよ、綺麗事をそのまんま信じてる奴がいるのは。……そういうもんだ。そういうものが、見てくれの世の中の奥に、ぎっしりある。そんなものは誰も見たくない。ないことにする。するてえと、ないことになっちまう。上っ面だけ見て、綺麗事をいう。そんなことをしてりゃ、見えねえもんが、どんどん増えて行く。人間てもんが、本当はどういうもんか、さっぱり分からなくなっちまう。綺麗事が大手を振っちまう」

  

 さて、間違いなく私は、このせりふの主とあまり変わらない処に立っている自分を感じるときがあります。そう思える事実が私の人生にも刻まれています。“暗闇”を、誰にでも開いて見せることはできませんが、はっきりしているのは、それをかりに言葉で表そうとするならば、人権や良識といった感覚からは遠い表現、“配慮”のない表現を用いることがあり得る、あるいはそれしかない、ということがあるということです。

  

 私は、○○○や△△△といった言葉を、何の状況的な制約もないままに、自由に使わせるべきだと言いたいのではありません。自由と自制は張り合わせの関係にあるべきだと思っています。しかし、だからこそ一律に投網をかけるような言葉の規制は、人間から、本当に物事を考えようとする真摯(しんし)さを奪い(それは苦悩する、ということです)、欺瞞と偽善に安易に身をゆだねることにつながりかねないと考えます。

  

暗闇はもともと見えないものですが、それを何がしか感じとることはできます。人間の心の暗闇ということでいえば、それを感じるための手掛かりは言葉です。言葉を削り取ってはならない、と思います。差別の問題であれ何であれ、それをしてしまったら、結局は「綺麗事が大手を振る」ようになるだけではないでしょうか。

  

 日々のニュースに関係ないことばかりを書いています。誰にでも飲んでいただけるような酒は出てこない店です。しかも毎日は開いていない。流行るわけもないのですが、そんな店のカウンターでも、座って耳を傾けてくださる方がいることに感謝申し上げます。

  

 編集人を務める「別冊正論」第3号の編集作業がそろそろ繁忙期に入ります。また10日間くらいは更新できないかと思います。

  

「別冊正論」はこの1月に「軍拡中国との対決」という特集号で創刊しました。一冊丸ごと特集主義を掲げ、「よりハッキリ、より刺激的に」をモットーにつくっています。第2号は「反日に打ち勝つ! 日韓・日朝歴史の真実」と題して4月下旬に発行しました。おかげさまでどちらも多くの読者のご支持を得ることができました。全国の書店でお求めになれますので、一度手にとって見ていただければ幸いです。

  

第3号は、「今こそ問う! 日本人の志はどこへ行った」と銘打った特集号として7月20日発行予定です。これまで対中国、対韓国・北朝鮮と、他者に対して強い物言いをしてきましたので、「では日本人はどうなのか」と自らを問う企画です。兄貴分の「月刊正論」ともども、宜しくお願いいたします。

 

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“見えない暗闇”(2)

2006/06/22 19:44

 

 前回、「人夫」を「労働者」と言い換えることで、飛雄馬の「貴」の精神が分からなくなってしまう、と書きましたが、ここで私は、“言葉狩りと表現の自主規制”について詳細に論じようとするのではありません。ただ、漫画であれ小説であれ映画であれ、言語生活の貧困化というか、「配慮」という名の過剰な意識に対して、違和感を記しておきたいだけなのです。

  

そのための素材として漫画を取り上げたのは、もともと漫画がそうした幅の広さ、奥行きを最も持ち得ていたはずだからです。漫画は、親や学校の先生に隠れて読むものだったのであり──少なくとも私の子供の頃はそんな感じでしたが(苦笑)──、その分、したり顔の良識や、欺瞞とは遠い世界のものだったはずなのです。その不良性の中にこそ真実があった。飛雄馬の父が「日本一の日雇い人夫」ではだめで、「日本一の日雇い労働者」ならなぜいいのか。これこそ偽善的な取り繕いではないのか──。

  

『どろろ』もまた、なぜ巻末に、「作品の根底に流れる『人間愛』『生命の尊さ』等のテーマを広く社会に訴えることに意義を認める」などという言い訳がましい一文が必要なのか(そんなことは読めば分かる!)。これも名作の『カムイ外伝』(作・白土三平)にも、主人公のカムイが失明して村人にいじめられる場面で、同じ村の女がそれを庇(かば)って、「相手は○○○でねえか」というせりふが、「相手は目が不自由でねえか」と言い換えられています。カムイの時代には「自由」も「不自由」も、そうした言葉はまだ日本に存在していません。言い換えることで、概念的にはともかく、一つの歴史的な実相を見えなくしているのです。

  

 そもそも、すべて人間は異なる与件のもとに生まれてきます。個性も能力も均一ではない。いつの時代の、どんな社会の、どんな肌色の人間に生まれてくるかは選び取れない。人間はそうした宿命を背負って生きてゆく。それときちんと向き合う姿勢がなければ、その個人がいかに周囲から配慮されようとも、自らの人生を尊厳あるものとして生きたことにはならない、という気がします。

「○○○」を「目の不自由な人」と言い換えたところで視力が回復するわけではない。目が見えないことを蔑んで、「○○○」と呼ぶ人間が、それを「目の不自由な人」と言い換えても、底意は変わらないのではないでしょうか。“蔑む心”が問題なのだと思います。

  

 と、ここまで読んでくださった方は、「あれっ?」と思われたでしょう。「○○○って何だろう」と。

  

それに答える前に、曽野綾子さんの『誰のために愛するか』(文春文庫)にこんな一文のあることをご紹介しておきます。

  

「弱みをさらすことのよさは、弱点というものは、ひとに知られまいとしているからこそ、自分も不自由だし相手も困惑するのであって、それを、思い切ってさらしてしまったが最後、閉ざされていた場合に貯えられていた不毛のエネルギーのほとんどは雲散霧消してしまう。

 もし私が△△△であったら、そっとしてふれないでおいてくれる友だちより、『おい、△△△。お前もこい』と言ってふつうに戦争ごっこに誘ってくれる友達を好くだろう。その際△△△と呼ばれることは、いつのまにか蔑称ではなく愛称になっている」

  

 「あれれっ? 今度は△△△って何だろう」

  

 実は、このブログで「○○○」や「△△△」を言葉として表すことはできないのです。これを伏せ字といいます。なぜ伏せ字なのか。このブログもまた、言葉づかいに制約を受けているからです。「不快な表現」ということで、削除される仕組みになっています。それがこの言語空間の管理者の決めたルールなのです。

  

しかしながら、伏せ字になっている言葉には、その文脈においては使われる必然性があるかもしれません。少なくとも、私は『カムイ外伝』の○○○も、曽野さんのエッセイにある△△△も、とても大切なことを伝えようとしている。ゆえに必然性がある、と考えているのですが……このことも伏せ字では隔靴掻痒(かっかそうよう)ですね。単なる興味本位ではなく、いったいどんな言葉が使われているのか察してみてください。

  

 ──お察しいただけた方は続きを。

  

曽野さんが「△△△」という言葉を使っていることは責められる不見識、差別的態度でしょうか。私は、「否」だと思います。なぜなら曽野さんは△△△を蔑んでいない。「足の不自由な人」と表現することで、何かが嘘になってしまう可能性がある。そうすることでどこか人間が見えなくなってしまう恐れがある。それは人間に内在する暗闇が見えなくなる恐れです。

(この稿、続けます)

 

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“見えない暗闇”(1)

2006/06/15 00:03

 

 編集者の酔夢はとても危険なものです。毎日は、とても披瀝できませんので、1週間か10日に1度、「どんなかな」と覘(のぞ)いてみてくだれば幸いです。

前回取り上げた山田太一さんの小説の一つに『見えない暗闇』(朝日文芸文庫)という作品があります。「“見えない暗闇”って何だ」と思われるでしょうが、今回は、私が感じた“見えない暗闇”について書いてみようと思います。かつて草思社という出版社の出す冊子にも書いたことなのですが、「悪酔いしてもかまわないよ」という方は以下にお付き合いください。


 

 ──ちょっと寄り道をします。


 

戦国武将の醍醐景光は、天下獲りの野望と引き替えに48匹の魔神に、出産間近のわが子を生け贄とすることを約束する。やがて生まれてきた景光の子は、目も、鼻も、口も、両の手足もない“塊”だった。景光はさすがに戦(おのの)くものの、魔神が約束を果たすことを確信して、嘆き悲しむ妻の前で大笑いしてみせる……。


 

 これは手塚治虫が昭和42年から3年間にわたって少年誌に連載した『どろろ』という漫画の冒頭場面です。景光の子は桶に入れられて川に捨てられるのですが、徳の高い医者に拾われ育てられます。感覚器官も手足もないその子にはしかし、素直な心があり、意思を伝えるテレパシーのような能力が備わっていて、成長するにつれ、木と焼き物とで入れ目や義手、義足をつくってもらい、見かけは普通の少年と変わらなくなります。

やがて少年は、「百鬼丸」と名乗り、魔神、妖怪と戦って自らの肉体を取り戻す旅に出るのですが……。


 

 妖怪漫画の傑作の一つで、人間存在の暗闇を見据えた重さと、その暗闇の底を突き刺すような峻烈さに、当時小学生だった私は、ある種の恐怖を感じたものです。景光と百鬼丸のような親子関係があっていいものか。また、正直にいえば、百鬼丸の救いのない肉体的欠損に対しても、それを遠ざけたい、あるいは嫌悪する感情をずっと抱えながら読んでいました。


 

普通ではないものに強烈な違和感を覚えながら、そこに人間が持つ一様ではない真実の姿がある。目を逸らしてはならない実体がある。言葉で整理してみせることはもちろんできませんでしたが、子供心にもそんな感覚を、私は持ったものです。


 

 さて、いまの世の中に、この作品を子供に読ませてみようと思う親がいったいどれほどいるでしょうか。

なぜそんなことを思ったのかというと、吉田浩氏が、『論座』(平成114月号)に、「言葉狩りと自主規制でおとぎの国が消えていく」という論文を書いていたのが目にとまったからです。それによると、いまや幼稚園・保育所では、「白雪姫」「みにくいアヒルの子」「王子と乞食」「こぶとり」といった童話は言うに及ばず、遊びとしての「スイカ割り」は視覚障害者に対する差別と見なされ、「福笑い」は奇形をつくるとして自主規制、さらに「ひな祭り」や「鯉のぼり」も、身分差別や家父長制を助長すると抗議を受けるそうです。「桃太郎」の鬼退治もだめで、「王様ごっこ、お姫様ごっこ」も親からのクレームの対象になるというのです。


 

 子供の世界に上下関係を意識させるもの、醜いもの、残酷なことを持ち込ませない。平等で、綺麗で、仲良し、という明るい面しか見せてはいけないという何ともそら恐ろしい理想の追求がなされている、といったら大袈裟でしょうか。こうした過剰な配慮を子供に施そうとする大人たちにとって、『どろろ』などは焚書(ふんしょ)すべき悪書となってしまうのかも知れません。


 

 実際には、子供の社会にも競争や上下関係はあり、醜さや残酷さとも無縁ではありません。他人を差別したりいじめたりすることも、またその逆をされることも経験するはずです。かりに無菌培養のようなことをやっても、現実社会との差異に気づいて、綺麗事ですべてを括ろうとする“したり顔”の大人たちに嫌悪感を抱くのではないか、という気がします。否、むしろそうあって欲しいと私なぞは思っています。現実感覚のない子供たちが、そのまま大人になるのを想像することの方がむしろ寒気立ちます。


 

 漫画少年であり、野球少年でもあった私は、『巨人の星』(原作・梶原一騎、作画・川崎のぼる)にも熱中しました。昭和41年から「週刊少年マガジン」(講談社)に連載され、さらにテレビ化されたことでスポーツ根性ものの一大ブームをつくった作品です。「飛雄馬(ひゅうま)」という変わった名前の主人公(原作者はヒューマン=humanから発想したという)が、野球を通じて成長してゆく過程を通じて父子の葛藤、姉弟の情愛、希望と絶望、友情、闘いなどのドラマが描かれ、そこに多くの教訓が与えられています。


 

 ──忘れられない場面があります。

飛雄馬は、父の命令で上流子弟の通う私立高校に進学することになるのですが、その面接の席で父親の職業を尋ねられた彼は、巨人軍の栄光の三塁手だった過去を秘しつつ、昼夜兼行で働いて学費を準備してくれた、いまは病の床にいる父のことを、胸を張ってこう言います。

「ぼくの父は、日本一の日雇い人夫です」


 

 これを読んだ当時の少年の多くは、涙をしたはずだと勝手に思っているのですが、さてどうでしょう。少なくとも、私は泣いてしまいました。

何度も読み返して、その度に泣いた。

飛雄馬の父が日雇い人夫だったことが悲しかったからではありません。それを堂々と言う飛雄馬の「貴」の精神に感動したからです。人間の尊厳や誇りのあり方に衝撃を受けたからです。面接者は飛雄馬の家庭環境をあらかじめ知っている。それでいて蔑むためにわざわざ質問したのです。飛雄馬はそれに、「日本一の日雇い人夫」と応じたわけです。

世の中に貧富の差はある。身分の上下もある。しかし、人間の貴賎は何で決まるのか。人間の本質的価値として何を貴ぶべきか。漫画ごときに大袈裟と苦笑されても構わないのですが、その基準が少年の胸にしかと刻まれた瞬間だった、と思っています。


 

 ところが、です。この場面、後年のテレビの再放送では音声がカットされ、漫画も復刻版では、「日雇い労働者」と言い換えられているのです。なぜ「人夫」ではなく「労働者」なのか。端的にいえば、人権に配慮した言葉の規制ということなのでしょう。昭和40年代には許されても、人権を尊ぶ、より進歩した平成の世の中では許容されない──。


 

 もっとも、それが作家、出版社によって自主的になされたものか、どこかから抗議を受けた結果なのかは詳らかに知りません。確かなのは、一つの言葉が消し去られ、別の言葉に置き換えられたという事実です。

「人夫」を辞書で引くと、「特技を持たず、荷運びなどの力仕事をする労働者」とあります。これの意味するところのどこが問題なのか。問題とすべきは、「人夫」という職を指し示す言葉そのものにあるのではなく、その言葉を投げ付けた面接者の蔑みの感情のほうではないでしょうか。それを「労働者」と言い換えることは、現実をぼかして、少しでも綺麗事に装おうとするものでしかない、というふうに私は思います。結果として、飛雄馬が闘ったものの実体が見えなくなってしまうのではないか。

(この稿、次回に続けます)

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